2014年11月12日水曜日

かわ・ハラー「かわいい」と言う問題

人間の考える動物界における「かわいい概念」の代表例 - 砂のお風呂に入る、宅のハムスター


 ヒトが生き物を「かわいい」と言う時、それは同時に「かわいくない」生き物の存在を暗示する。例えば一般社会でいえば、上の写真の様なハムスターは「かわいい」とされる。小さくて、白っぽくやわらかい毛並みがふかふかで、足が短く黒目がくりくりしていて、木の実や葉っぱを食べ、人間と仲良しだからだ。一方、「かわいくない」生き物の典型的なものは、だいたい今挙げた形容詞の逆を考えると分かりやすい。即ち、大きかったり、黒っぽくて、節くれだった足をゴソゴソとさせ、瞳はギラギラと闇夜に輝き、固い毛並みかもしくは無毛で、食事は血や肉を貪り、人になつかない。生き物を「かわいい」と言う時、私達は無意識のうちに自分達にとっての良し悪しの判断を下しているのである。自然物である生物に対して「いい」と「わるい」を、自分の尺度で勝手に裁いているという事になる。

 我々の大好きな両生類や爬虫類の場合、どことなく親近感を感じさせるカメやカラフルなカエル、半分家畜化された一部のヘビ、トカゲ、ヤモリなどの場合はまだマシだと言えるけれども、それでも一般的には「かわいくない」に分類される生き物達だ。「かわいい」という言葉は本来、言い手の存在を脅かす可能性が低そうで立場的にも劣勢のものに対して使われ易い言葉なので、「ひょっとすると脅威になる得るかも」と想像をかきたてる両爬の場合、根本的に不利だ。もちろん「かわいい」のセンスは千差万別なので彼らにも愛好家が沢山いるが、中には逆を行って、この両生類や爬虫類が世間で「かわいくない」とされている前提を踏まえ、だからこそ好きなのではないかと思わされる人も存在する。「かわいくない」「こわい」とされている生き物を愛でている自分、という構図を作ることが目的の人も居るかも知れない。そんな時、両・爬は自意識補完薬としても作用するのだ。

 話をもとにもどすと、このように「かわいい」というアイデアはかなり主観的かつ、自動的に「かわいくない」側への差別を促すという倫理上の欠点がある。これには実害もあって、最近読んだこの話によると、たとえば自然環境や、生物種の保護活動においても、人々の関心や寄付は「かわいい」「きれいな」動物・・・例えばトラやクジラ、パンダやウミガメ、ホッキョクグマなどに集中し、それらの動物の存在を根底からささえる「縁の下の力持ち」の、小さな植物の仲間や昆虫類、クモ類、ヘビやカエルなどは無視される傾向にあるという。この現象は、人間の美的感覚が巡り巡って生物の多様性を失わせる可能性があることを示唆していて、危惧されることなのだ。

 まとめると、何かの生き物を見て「かわいい」という事は、スーパー上から目線なだけでなく、自然の神秘漲る「環境」に対して我々ヒトの粗末な尺度を押し付け、あわよくばその良し悪しを判定してやろうと考える傲慢、さらに「悪し」の側に分類されようものならいつの間にか滅びてようが知ったこっちゃねーという、あんまりな人類の暗黒面の発露となりかねないのである(※あくまで管理人個人の考えです)。よって今日、生き物に対して安易に「かわいい」という事は、ハラスメントの一種であると勝手に決定した所存であります。生き物をやたらと可愛さメインで語っていくことがあたかもめちゃめちゃ恥ずかしいことみたいな社会通念を作りませんか。本能を抑え込む最もパワフルな原動力は「恥ずかしいと思うきもち」だと思うので。

 しかしなんで、ここまでガタガタと能書きを書いたあげく両爬虫類の大大大の味方である管理人がロボロフスキーハムスターを3匹も飼っているのか、それはもう、理屈抜きでかわいいから生き物として大変興味深いからです。

一般論的「かわいくない」の一例、バルカンヘビガタトカゲ(Ophisaurus apodus)

お願いだからそんな目でこっちを見なさんな。

0 件のコメント:

コメントを投稿