2014年8月12日火曜日

「ちがい」をめでる

おとといのカエル・ウォッチで見つけたミドリガエル。 このありふれたカエルでさえ、この姿でいることには意味がある。

 カエルとイモリに与えるための羽なしショウジョウバエのカルチャーをトントンしていたら、かすかな羽音とともにビンから1匹のハエが飛び立った。「こいつ飛んでるぞ!」という衝撃と共に、蛍光灯に照らされてなぜかひときわカッコよく輝いて見えたそのハエは、一生、ドロドロと発酵した培地の上を走り回るしかない幾千の兄弟達の中に生まれた「特別な空飛ぶハエ」だった。

 ヒトが地上にあふれかえらんばかりにのさばる成功した種族となった要因は、私達が好奇心がやたらと旺盛で、本質的に多様性を好む生き物だからかもしれないと、最近思っている。たとえば自分達爬虫類好きは、並み居る似たような生き物の集まりのなかでなにか特別な特徴を持った「個体」にひときわ感心して、興味をもつ傾向にある。白いヘビだとか、池で見かけるやけに赤いカメとか、先の羽なしショウジョウバエレベルの生き物であっても、どれかひとつ特別に抜け出た個性をもつ生き物は「おもしろ」くて、とても気になってしまうのだ。そもそも飛ぶ存在であるはずのハエが、特定の環境下ではカッコよく見えてしまうように、我らヒトにとっての「カッコよさ」「イケてる度合い」とは相対的で、希少性と比例している事が多い。つまり我々にとって、すくなくとも先進国に住む人々にとって、マイノリティ側の個性や特質とはしばしば興味の対象であり、コミュニティの中で「大切に保護されていくべきもの」ととらえられることも多い。

 これは人間以外の動物には殆ど見られない心理構造じゃないかと思う。野生に暮らす動物達の場合、生育できる環境というのが特定していることが多いので、「その環境に順応した性質をもつ個体同士」という、限られた枠組みの中での多様性を保とうとする。すると結果的に個体としての健全さは保持しつつも、その場・その場の環境に特化した生き物の集団が生まれてくる(これが「種」ということになる)。彼らの中では、異性に対するアピールは人間のように「命知らずの冒険野郎である」とか「体は弱いけど綺麗なグリーンの瞳をしている」とか、「病的コミュ障だが鉱物のことにやたら詳しい」とか、そういう観点では計られず(そういう個体は先にだいたい淘汰される)、単にその環境に適応したマジョリティ集団の中でどのくらいエサをとるのがうまいかとか、排他的性質で縄張りをきちんと守り子孫をいっぱい残せるか、などが問われる。

 ヒトの、自分達の種の中で希少なマイノリティ側の個体も程よく残していこうよという作戦は今のところ成功しているように見える。文明史に名前を残すような優れた功績を残した人の中には、一般社会の中ではどちらかというとマイノリティに属するキャラを持った人々がたくさんいるのだ。「いきもの」としては強くない、そんな個体達によって我々は生きる上での周辺環境を自由に変えてしまうことを学んできた(それは「繁殖期」の消失と爆増した人口が物語っている)。20万年以上の時をかけてどうやらこの地球上での生存競争に勝ち、知らないうちに自然の摂理からすらも半歩抜け出てきている自分達人間の次の課題は、地球上で消えゆく「過去のライバル達」の存在を認め、彼らの多様性をもまた、純粋に慈しむことではないだろうか。「みんなちがって、みんな良い」かったからこそ今日の自分があることを、たまには思い出さないとなあ~と思った今日でした。